有形文化財 | |||
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名称 | 所在地 | 指定年月日 | 摘要 |
法華寺八方睨みの竜壁面 | 江差町字本町71 | 昭和46・12・5 | 法華寺本堂の壁画で京都の画師・池大雅の作といわれている。画の中央に頭があり、どの方向から見ても自分の方を睨んでいるといわれている。美術的価値も高い。 |
法華寺山門 | 江差町字本町71 | 昭和46・12・5 | 約380年前に檜材伐採事業取締のために設置された檜山奉行所の正門。後に、この奉行所は江差発展に大きな役割を果たした。明治15年(1882年)法華寺に払下げられた。 |
阿弥陀如来像(円空仏) | 江差町字泊町369 | 昭和52・2・17 | 寛文5年(1665年)から北海道各地で仏像を彫った円空上人の作。この仏像がいつから観音寺にあったのかはあきらかではないが保存状態も非常に良好である。 |
来迎観音像(円空仏) | 江差町字柏町 | 昭和52・2・17 | 円空上人の作。江差地方の鰊が不漁になった頃、豊漁祈願のため海に投げ込まれたが再び海岸に漂着したという。顔の状態ははっきりしないが保存状態は良好である。 |
来迎観音像(円空仏) | 江差町字尾山町 | 昭和52・2・17 | 円空上人の作。神杜川尻に漂着したのを畑中ハツさんが自宅で祀っていた。頭部が半分かけ破損が激しい。明治35年(1902年)頃神社に奉納された。 |
霰庵の句碑 | 江差町 字姥神町98 |
昭和52・2・17 | 霰庵は松窓乙二の高弟太呂によって結社。文化11年(1814年)太呂が江差に滞在中揮毫し、句碑に刻んで素心屋敷に建立。明治5年(1872年)素心屋敷が焼失、昭和6年(1931年)に鴎島に移された。 |
旧関川家別荘 | 江差町 字豊川町55 |
昭和56・7・14 | 関川家別荘のうち土蔵は関川家文書等から判断すると6代目関川与左衛門の時代に建立されたものと思われる。江差の経済史を物語る上でも極めて貴重な建造物である。 |
金丸家住宅母家及び土蔵 | 江差町 字橋本町40 |
昭和57・7・22 | 明治14年(1881年)建設の本住宅は橋本屋の屋号で呉服・太物・洋反物を販売していた鈴鹿甚右衛門所有のものである。橋本町の町名発祥の住宅として貴重なものである。 |
江差八勝の額 | 江差町 字姥神町98 |
昭和62・10・27 | 頼三樹三郎は、弘化3年(1846年)に江差の文人7人と、桂景を八景選定しそれぞれ詩題として作詩した。この作詩八題を額に表装し姥神大神宮に献額したものである。貴重な文化遺産である。 |
子安地蔵菩薩像(木喰仏) | 江差町字中歌町168 | 昭和62・10・27 | 子安地蔵菩薩像は、安永8年(1779年)の作品で二百有余年もの間庶民信仰の対象として保存されており貴重な資料である。 |
地蔵菩薩像(木喰仏) | 江差町字泊町369 | 昭和62・10・27 | 地蔵菩薩像は、安永9年(1780年)の作品で初期の木喰仏らしい作風を残している。二百有余年もの間庶民信仰の対象として保存されており貴重な資料である。 |
「隆民殿」の額 | 江差町 字姥神町98 |
昭和62・10・27 | 寛政11年(1799年)松前藩主13代道広は「降福孔夷」と草書にて書き姥神神社に掲げた。これが因をなして奥州梁川に文化4年(1807年)移封されることとなったのは、北海道史上有名な事件の一つである。 |
松沢伊八翁祈念碑 | 江差町本町271 | 平成3・11・26 | 松沢伊八は天保6年(1835年)佐渡赤泊に生まれ慶応3年(1867年)に江差で独立した。海運業に大きな業績をあげるとともに初代江差郵便局長・田畑開墾・道路改修・江差灯台建設など公益事業に大きな功績を残した。 |
瓊江丸記念碑 | 江差町字本町271 | 平成3・11・26 | 明治24年(1891年)7月11日津軽海峡で西海岸鰊場からの帰郷客321人を乗せて航行中、新潟県の三吉丸と衝突し乗客253名、乗員8名溺死という悲惨な事件となった。 |
尾山徹三先生之墓 | 江差町字緑丘46 | 平成3・11・26 | 尾山徹三先生は天保7年(1836年)城下福山に生まれる。江差市中で私塾江明学校・鴎島学校を開設し、明治期の教育に大きな役割と影響を与えた。明治22年(1889年)、師の徳を讃える弟子達の手によって巨大な墓碑が建立された。 |
開陽丸出土遺物 | 江差町中歌町193 | 平成3・11・26 | 開陽丸は、文久元年(1861年)幕府がオランダに発注し慶応3年(1867年)引き渡され幕府海軍軍艦となった明治元年(1868年)江差沖で坐礁沈没。昭和50年(1975年)から引き揚げした出土物の総数は32,905点となっている。 |
贈徒五位鈴鹿甚右衛門之碑 | 江差町姥神町98 | 平成3・11・26 | 6代目鈴鹿甚右衛門は、文政6年(1823年)江差に生まれる。碑は、大正5年(1916年)曾孫・秀二郎が、町民の協賛を得て姥神大神宮境内に建立した。 |
無形民俗文化財 | |||
名称 | 所在地 | 指定年月日 | 摘要 |
江差土場鹿子舞 | 江差町字柳崎地区 | 昭和48・2・5 | 厚沢部川口の土場で伐採によって発生。鹿子は三頭で前半は神事、後半は雌鹿子争い、中間に木々振り舞いがある。津軽鹿子の影響を強く受けている。 |
江差田沢鹿子舞 | 江差町字田沢地区 | 昭和48・2・5 | 数人の若者がヤマメを採りに谷川へ出かけた折、5頭の鹿がたわむれているのを見て舞いにまとめたという。構成は五勝手鹿子舞と同じであるが鹿子頭が異なる。 |
江差鮫踊り | 江差町旧五勝手地区 | 昭和3・11・26 | 五勝手地域という鰊漁業従事地域に発生し古くから盆踊りの形態をとおして伝承されてきた。 |
江差追分踊り | 江差町全域 | 平成7・6・13 | 江差追分踊りは、文化元年(1804年)から文政12年(1829年)頃、江差経済繁栄のなかで座敷踊りとして、芸妓の間で踊られたのが創始といわれている。 |
有形民俗文化財 | |||
名称 | 所在地 | 指定年月日 | 摘要 |
船絵馬(2枚) | 江差町 字陣屋町9 |
昭和56・7・14 | 安政7年(1860年)と明治12年(1879年)に奉納されたもの。弁財船の所有者が安全を祈り奉納したもので当時の信仰の模様が理解できる。美術的作品としても貴重なものである。 |
船絵馬 | 江差町 字姥神町98番地 |
昭和62・10・27 | 明治12年(1879年)に弁財船の所有者が、航海の安全を祈り奉納したもので、当時の信仰の模様が理解できる。美術的作品としても貴重なものである。 |
祭礼山車蛭子山人形御面相 及び付属品 |
江差町字中歌町 | 平成12・4・19 | 京都人形彫刻師常川又右衛門の作と推定。明治29年(1896年)江差町法花寺町田中龍北より修繕。町区改正により、昭和12年(1937年)旧中歌町から新中歌町に引き渡し。 |
祭礼山車蛭子山水引猩々 緋水引 |
江差町字中歌町 | 平成12・4・19 | 緋羅妙地に金糸等で布袋・龍・虎を描いている。明治元年(1868年)、旧九艘川町住宅の豪商岸田三右衛門が京都の呉服織物問屋糸屋忠蔵に依頼制作。 |
祭礼山車豊年山水引唐子 春秋之図 |
江差町字姥神町 | 平成12・4・19 | 各種色糸の刺繍にて図柄を描き、主要図柄は中に綿を入れて盛り上げ、四方を緋羅妙地にて縁取りし、紫色の房が付く。昭和55年(1912年)、京都宇佐美松鶴堂にて修復。 |
祭礼山車豊年山水引 日本三景之図 |
江差町字姥神町 | 平成12・4・19 | 日本三景が緋羅妙に刺繍されている。四方の縁は緑色の緋羅妙でしたてられている。明治45年(1912年)中歌町蛭子山にて制作。 |
祭礼山車聖武山人形御面相 及び付属品 |
江差町字橋本町 | 平成12・4・19 | 祭礼山車の人形で、明治22年(1889年)に大阪の大江良助によって作られた。 |
史跡 | |||
名称 | 所在地 | 指定年月日 | 摘要 |
戌辰の役戦死者の墳墓地 | 江差町字松の岱 | 昭和46・12・5 | 明治元年(1868年)11月から2月5日まで、榎本武楊との戦いで戦死した政府方の墳墓である。松前藩士や水戸藩士92名の墓があり、本道黎明期における歴史的価値が高い。 |
かもめ島砲台跡(南北2カ所) | 江差町字鴎島 | 昭和56・7・14 | 嘉永5年(1852年)松前藩が外国から侵略を防ぐため設置した。現在はその跡だけが残されているが、藩政時代の沿岸警備の様子を知るうえで貴重な資料である。 |
北前船飲用井戸 | 江差町字鴎島 | 昭和57・7・22 | 江差の歴史の中で北前船の活躍は欠かすことのできない重要なものであり、この井戸の果たした役割は非常に大きなものである。 |
北前船係船柱及び同跡 (かもめ島周辺) |
江差町字鴎島 | 昭和57・7・22 | 鴎島に係船するために江差商人の手によって設置したのがこの係船柱及び同跡であり、江差の経済を支えた北前船の資料として貴重なものである。 |
有形文化財 | |||
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名称 | 所在地 | 指定年月日 | 摘要 |
蝦夷錦 | 上ノ国町字大留52 | 平成9・2・24 | 笹浪家所蔵品であり、江戸時代における上ノ国の歴史を知る上で貴重である。 |
紺糸威胴丸 | 上ノ国町字大留52 | 昭和47・9・11 | 山上八郎氏によると「江戸時代中期宝歴頃のもの。万石以上の格式を備えた作りであり、松前藩主着用の品であろう」としている。 |
円空作仏像観音座像 | 上ノ国町字北村64-3 | 昭和60・7・23 | 江戸時代の代表的造仏像である円空は北海道にわたり多数の仏像を作った。町内には6体が確認されている。 |
円空作仏像観音座像 | 上ノ国町字木ノ子117 | 昭和60・7・23 | |
円空作仏像観音座像 | 上ノ国町字石崎204 | 昭和60・7・23 | |
円空作仏像観音座像 | 上ノ国町字大留52 | 昭和60・7・23 | |
絵画(裏書輪島屋太佐衛門) | 上ノ国町字大留52 | 平成元・2・23 | 安政2年(1855年)松前藩領上知に際し、松前城下在村々の名主等の有力者が復領運動に奔走した。本資料は安政4年(1857年)復領に尽くした有力者等に裏書を付けて、輪島屋太佐衛門名をもって藩主松前崇広より下賜された。 |
絵画(裏書輪島屋太佐衛門) | 上ノ国町字大留52 | 平成元・2・23 | |
書(裏書輪島屋太佐衛門) | 上ノ国町字大留52 | 平成元・2・23 | |
書(裏書輪島屋太佐衛門) 他1件 |
上ノ国町字上ノ国409 | 平成元・2・23 | |
書(裏書輪島屋太佐衛門) | 上ノ国町字木ノ子 | 平成元・2・23 | |
清浄寺本堂 | 上ノ国町字上ノ国 | 平成5・8・10 | 松前専念寺により建てられた掛所道場のひとつで専念寺10世了幻のとき、明和3年(1766年)5月に落成されたという。道南各地にたてられた掛所道場の実態を示す数少ない遺構として貴重である。 |
書(松前氏13代道広書) | 上ノ国町字上ノ国409 | 平成5・8・10 | 道広が八幡宮に奉納したもの。 |
書(松前氏14代章広書) | 上ノ国町字上ノ国409 | 平成5・8・10 | 松前藩領上地を解かれ梁川より帰国した章広が復領賽のため八幡宮に奉納したものである。 |
書(松前氏14代章広書) | 上ノ国町字大留52 | 平成5・8・10 | 章広が天保3年(1832年)町内字石崎の牧場を巡視の時詠んだ俳句3句が記されている。 |
チカルカルペ | 上ノ国町字大留52 | 平成5・8・10 | 生地は厚手の縞木綿。裏に「西川堅作」の記載があり。衿と袖口の文様は樺太のアイヌ衣服であるアツトウシに似ている。 |
マエタレ | 上ノ国町字大留52 | 平成5・8・10 | 生地はオヒョウ。切り状生地は紺木綿。裏に「上ノ国六年笹浪キサ(旧笹浪家11代当主久衛氏の母)」の記載あり。 |
テタラペ | 上ノ国町字大留52 | 平成5・8・10 | 生地はイラクサまたは麻。切り状生地は紺木綿。刺繍糸は白、紺木綿。縫い糸はイラクサ、白木綿裏に「上ノ国六年笹浪キサ(旧笹浪家11代当主久衛氏の母)」の記載あり。 |
マエタレ | 上ノ国町字大留52 | 平成5・8・10 | 生地はオヒョウ。切り状生地は紺木綿。裏に、「西川堅作」の記載あり。 |
チカルカルペ | 上ノ国町字大留52 | 平成5・8・10 | 生地は茶格子木綿、衿は紺木綿。切り状生地は古い紺木綿。刺繍糸、縫い糸は紺木綿。 |
アッシ | 上ノ国町字北村 | 平成5・8・10 | 生地はオヒョウ。刺繍糸は、紺木綿。 |
マエタレ | 上ノ国町字北村 | 平成5・8・10 | 生地はオヒョウ。 |
チカルカルペ | 上ノ国町字大留52 | 平成5・8・10 | 生地は茶格子木綿、切り状生地は古い紺木綿。 |
アイヌ絵巻 | 上ノ国町字大留52 | 平成9・2・24 | 旧笹浪家所蔵品であり、江戸時代における上ノ国の歴史を知る上で貴重である。 |
短刀及び拵え一式 | 上ノ国町字北村 | 平成9・2・24 | 旧笹浪家所蔵品であり、江戸時代における上ノ国の歴史を知る上で貴重である。 |
松前ばっかくの墓 | 上ノ国町字石崎471 | 平成13・6・5 | 斉藤流松前家の松前平角源の忠則の墓である。平角は18世紀後半の武芸に秀でた松前藩士で、寛政元年(1789年)クナシリ・メナシの戦いに出陣、寛政3年(1791年)には高橋壮四郎らとともに、樺太を調査し、「樺太見聞書」を著している。 |
赤門の墓 | 上ノ国町字木ノ子 474-4 |
平成13・6・5 | 蛎崎将監廣当の墓と伝えられる。木ノ子は天明年間蛎崎将監の知行地であったことが『蝦夷拾遺』に記されている。その後『夷酋列像』で知られる。将監の嗣孫・波響(広年)も木ノ村を拝領している。 |
南條の墓 | 上ノ国町字桂岡51 | 平成13・6・5 | 南條安右衛門の墓、若しくは南條越中廣継の墓と地元に伝えられてきた。コシャマインの戦いの頃、南條家の祖季継は知内町の脇本の館主として知られ、後に子孫は松前家に仕えた。廣継は天文17年(1548年)蛎崎基広の跡を継いで勝山の城代となり、安右衛門包元は享保18年(1733年)から寛保2年(1742年)まで寺社町奉行を勤めた。墓碑を囲む土累から採取された陶磁器により築造年代は17~18世紀と考えられる。 |
無形民俗文化財 | |||
名称 | 所在地 | 指定年月日 | 摘要 |
大留鹿子舞 | 上ノ国町字大留 | 昭和50・12・13 | 開拓当時大留地区の人々が大千軒岳に住むという鹿を形どり、集落の平和、五穀豊穣を祈願して大留神社に奉納したのが創始といわれている。 |
石崎奴 | 上ノ国町字石崎 | 昭和57・9・10 | 江戸時代から伝えられている字石崎地区の無形文化財である。石崎八幡神社の祭典に毎年奉納されている。 |
有形民俗文化財 | |||
名称 | 所在地 | 指定年月日 | 摘要 |
円空作仏像観音座像 | 上ノ国町字上ノ国236 | 昭和60・7・23 | この仏像は像の一部を護符等として削ったり、子供達が遊び相手にした等との言い伝えも残されており、そうした当町における庶民信仰の過程を伝えるものとして貴重である。 |
無形民俗文化財 | |||
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名称 | 所在地 | 指定年月日 | 摘要 |
土橋鹿子舞 | 厚沢部町字富栄 | 平成17・4・26 | 元禄年間に、江差町豊部内山中で鹿の不思議な動きを模して踊りが創作されたと伝えられ、文化5年(1808年)に江差市中で土橋の鹿子舞が踊られていたとの記録がある。明治34年(1901年)に町内沼ノ沢へ鹿子分けがされ、踊りの動作に神楽の足運びが取り入れられ、ゾバまきという独特の動作があることが特徴である。 |
上俄虫鹿子舞 | 厚沢部町字上里 | 平成17・4・26 | 文化年間に陸奥国福島から伝来したとされる。陸奥国のある集落で鹿子頭がひとりでに踊っていたことが目撃され、不吉に感じた村人が鹿子頭を川に流してしまったところ、集落で不幸が続いたという。この話を伝え聞いた上俄虫の人々が、鹿子の祟りを鎮めるため、鹿子分けを受けたことが由来とされる。 |
安野呂鹿子舞 | 厚沢部町字滝野 | 平成17・4・26 | 天皇や東北地方の大名の病を治すために犠牲となった鹿の霊を慰める目的で、山で目撃された鹿の動きを取り入れて踊りを創作したとされる。明治40年(1907年)に町内の赤沼集落へ鹿子分けがされた。 |
当路鹿子舞 | 厚沢部町字当路 | 平成17・4・26 | 明治30年(1897年)頃に木材の流送などで関わりのあった厚沢部川下流の土場から鹿子分けがされた。明治40年(1907年)頃に踊りが改良され、現在の激しい中腰踊りとなった。 |
目名権現獅子舞 | 厚沢部町字美和46 | 平成21・4・24 | 神楽系獅子舞の中でも権現舞を演目の中心とする「修験系」と称される類である。獅子舞の由来については確実な伝承は存在しないが、美和集落の奥の山に住んでいた「行者」がこの芸能を伝えたという言い伝えがある。 |
有形文化財 | |||
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名称 | 所在地 | 指定年月日 | 摘要 |
蝦夷錦七条袈裟 | 乙部町字緑町386番地 | 平成10・3・3 | 本体の裏打ちには、明治7年(1874年)に能代権次郎が施主となり父治兵衛の法名をもらった事が記されている。 |
享保七年銘喚鐘 | 乙部町字栄浜367番地 | 平成13・3・9 | 喚鐘は、「享保七年壬寅天願主大茂内村・・・」の銘が刻まれており、同年に村人が大茂内村清順庵(後の龍宝寺)に寄進した。栄浜地区の成立を知るうえで貴重な資料である。 |
有形文化財 | |||
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名称 | 所在地 | 指定年月日 | 摘要 |
宮津弁天宮 | 奥尻町字宮津83番地 | 平成11・7・26 | 天保12年(1842年)創建。奥尻最古の祭祀場とされる、弁天島に立地。宮津チャシ及び宮津遺跡内に所在。 |
丁字頭勾玉 | 奥尻町字青苗36 | 平成21・12・22 | 北日本最大級の勾玉であり、丁字頭は北日本で唯一の出土例である。形状や特徴から弥生時代末期頃の西日本に由来する可能性がきわめて高い一級品の丁字頭勾玉である。糸魚川産のヒスイ原石を用いた丁字頭勾玉は近畿地方を中心とする西日本に多く発見され、古代における日本海交易の結果、奥尻島にもたらされたと考えられる。 |
徳洋記念碑 | 奥尻郡奥尻町字青苗青苗岬 | 平成26・10・1 | 明治13年(1880年)に青苗沖に座礁した、英国軍艦アイアン・デュークを、乗艦していた有栖川宮威仁親王が、島民や他国軍艦と協力して救助に当たったことを記念し、その遺徳及び海難における共同救助の美徳を後世に伝え残すために建立されたもの。 |
名勝 | |||
名称 | 所在地 | 指定年月日 | 摘要 |
鍋釣岩 | 奥尻町字奥尻鍋釣海岸 | 平成11・7・26 | 高さ約19mの奇岩で、その形が鉄鍋の弦(つる)に似ているところから命名されている。岩は海底の火山活動に由来し、溶岩が噴出しかかったまま冷却されて固まり、後世に軟質だった周囲の岩盤が消滅し、溶岩部分だけが取り残されたもの。岩石の石質は安山岩。明治時代以前から岩に生えている植物はヒロハノヘビノボラズと言い、とげがあって、蛇が登れないというのが、命名の由来。震災の影響で若干崩れたため、脆弱な箇所を補強してある。 |
有形文化財 | |||
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名称 | 所在地 | 指定年月日 | 摘要 |
美利河遺跡出土品 | 今金町字美利河228-1 | 平成3・5・9 | 国指定重要文化財をのぞく約11万点の石器類。 |
カニカン岳金山跡鉱山臼 | 今金町字美利河 | 令和4 ・ 1 ・ 26 | カニカン岳中腹には現在も坑道跡や露頭堀り跡が多数見られ、また江戸時代の文書記録等から、江戸時代前期に稼働した金山と考えられている。山麓から回収された鉱山臼3点は、当時の金山経営の一端を示すものとして貴重なだけでなく、当金山の年代的位置づけや技術の伝播系統を伺い知る上でも重要である。 |
美利河マンガン鉱山関連資料 | 今金町字美利河 | 令和4・1・26 | 美利河マンガン鉱山は美利河地区内で明治25年(1892年)から昭和42年(1967年)まで稼働し、明治30年(1897年)に最盛期を迎え、人口1,000人に達するまで発展した。 当鉱山は砂金山を除く坑内堀り金属鉱山としては北海道最古の鉱山で、明治から昭和初期では北海道最大のマンガン鉱山とされている。 廃鉱後、昭和50年(1975年)代に関連資料一式が鉱山から移設され、現在収蔵庫で保管・展示している。これら一連の資料は当時の鉱山文化を示すものとして貴重である。 |
天然記念物 | |||
名称 | 所在地 | 指定年月日 | 摘要 |
ピリカカイギュウ化石 | 今金町字美利河228ー1 | 平成6・12・14 | 約120万年前の海生哺乳類化石32個他。体長8mと、復元された中では世界最大級のカイギュウ化石として知られる。 |
有形民俗文化財 | |||
名称 | 所在地 | 指定年月日 | 摘要 |
上田式豆まき器 | 今金町字美利河228-1 | 平成27・2・17 | 明治42年(1909年)、上田甚作氏が考案した豆まき器で、苦労の多かった播種作業を大幅に効率化し、その後約半世紀間にわたり広く普及し、道内の畑作農業の発展に大きく貢献した。 |
史跡 | |||
名称 | 所在地 | 指定年月日 | 摘要 |
美利河砂金採掘跡 | 今金町字美利河 | 令和4・1・26 | 指定区域一帯は、人頭大程度の礫が石垣上に積み上げられた遺構やすり鉢状にくぼんだ地形、石積みなど、江戸時代前期の松前藩による砂金採掘の関連遺構が良好に残っており、当時の砂金採掘技術や金山経営の実態を知る上でも重要である。 |
有形文化財 | |||
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名称 | 所在地 | 指定年月日 | 摘要 |
阿波浄瑠璃人形 | せたな町 北檜山区北檜山266 |
平成15・12・25 | 明治24年(1891年)徳島県から北檜山に入植した人々が結成していた「真駒内浄瑠璃一座」で使用していた浄瑠璃人形である。現在、一座は廃業しているが、徳島県に博物館がある人形師天狗久作のものや、人形師富作のものが現存している。 |
兜(明珍信家作) | せたな町 北檜山区北檜山266 |
平成15・12・25 | この兜は、北檜山開拓の祖、丹羽家代々の家宝として伝えられてきたもので、会津藩が戊辰の役に敗れ、丹羽族氏(丹羽五郎氏の父)が自刃するまで使用していた兜である。裏側には銘と製作年月日が刻まれており、天文18年(1549年)明珍信家の作で、明珍信家とは室町時代の甲冑づくり三大名人のうちの一人である。 |
青い目の人形 | せたな町 北檜山区北檜山266 |
平成15・12・25 | 第一次世界大戦後、日米の対立による緊張が高まっていた昭和2年(1927年)に、両国の緊張緩和を目的に人形使節としてアメリカから太櫓小学校へ贈られたのが、青い目の人形「ルイーズ・アルコット」である。 |
荻野吟子の遺品・資料 | せたな町瀬棚区本町628 | 平成17・8・9 | 明治18年(1885年)、公式に試験を受けて合格した日本の女医第1号「荻野吟子」である。女史は現在の埼玉県妻沼町生まれ、明治27年(1894年)に現今金町神丘に入植し、明治30年(1897年)に瀬棚村で「荻野医院」を開業した。開業後、予防医療の普及や女性の地位向上に尽力した。 |
無形民俗文化財 | |||
名称 | 所在地 | 指定年月日 | 摘要 |
久遠神楽 | せたな町大成区都386 | 昭和59・1・7 | 明治30年(1897年)頃、青森県三本木町(現在の十和田市)から、鰊漁をするために移住してきた久保金治氏と弟の政次郎が遠くふるさとの山野を偲び、三本木町に伝わっていた踊りを都地区の青年団に教え、伝えたのが久遠神楽の始まりと伝えられている。現在は、大成中学生が伝承活動を行っている。 |