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サハリンの竪穴群発見150周年

 

2018(平成30年)4月26日(木)

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1868年6月に発見されたタライカの竪穴(昭和12(1937)年8月撮影、道立北方民族博物館所蔵写真)

 

 

 今年は明治2(1869)年の北海道という行政区域の設置から150年目にあたり、道内で各種の記念事業が予定されています。一方、サハリン島ではその前年の4月、鉱山技師のインナキェンチイ・ラパーチン(1839-1909)が東海岸の調査を始めていました。

 

 彼は西海岸のクッスンナイ(邦領時代の久春内、現イリンスカヤ)にあったロシアの哨所から出発し、マヌエ(邦領時代の真縫、現アルシンチエフカ)で東海岸に出たあとオホーツク海岸を南下し、ナイブチ哨所からナイバ川(内淵川)を遡って炭鉱を探しましたが、その途上、内淵川の河口に近い白鳥湖の北東岸で古代の竪穴住居跡群を確認しました。これが今のところ記録で確認できる範囲でロシア人によるサハリン島の考古遺跡調査のはじまりとされています。同じ年の6月にかけて、彼は島内でさらに3箇所の古代の竪穴群を確認しました。

 ラパーチンが白鳥湖岸の竪穴群を訪れたのは当時ロシアで用いられていたユリウス暦の4月28日で、グレゴリオ暦では5月10日にあたります。したがって今年5月10日はこの発見から150周年にあたるわけです。その後この竪穴群からは、北海道の北東部にも分布するオホーツク式の土器が発見されており、1,200年ほど前のものと考えられます。

 それでは北海道ではじめて竪穴住居跡群が発見されたのはどこで、いつだれが調査したのか、実は今のところはっきりしていません。北海道の名付け親として知られる松浦武四郎(1818-1888)は、弘化二(1845)年に初めて蝦夷地に渡航した頃からすでに竪穴群の存在を知り、古代人の住居跡と考えていたようです。また松浦より約半世紀前に広く蝦夷地を巡った最上徳内(1754-1836)も同様な考えをもっていたらしく、竪穴の周囲に土手のような盛り土が伴うことをラパーチンの約60年前に指摘しています。したがって、北海道古代の集落跡の発見はサハリンの場合より早かったと考えてよいようです。

 しかしラパーチンが、首都に帰ると間もなくサハリンでの発見を書類にまとめて国の考古学委員会に報告し、その引き換えに委員会から東シベリアで古代遺跡の発掘を行う許可を得たように、サハリンにおいて早くから考古学的な調査が行政の管理下にあって、中央の学術機関へ情報の集約がなされたのに対し、北海道で発掘調査の届出が義務付けられたのはようやく昭和25(1950)年のことであり、近代化・都市化とともに破壊されていく文化財の保存が問題となってからすでに相当の年月が経過していました。

 このように、北海道とサハリン州には互いによく似た古代集落が分布しますが、その調査や保護の歩みは異なります。二つの地域の遺跡の内容を適切に比較し、世界のこの地域に目立って多く残っている竪穴住居跡群全体の価値を正しく表現するためには積極的な情報共有の努力が必要であると考えられます。

 

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