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最終更新日:2018年9月05日(水)

 

北方領土のコーナー


画像北方領土のコーナー



 みなさんは、北方領土という言葉を、聞いたことがありますか。
 北方領土がどこにあるのか、どんな島々をいうのか、自然の様子や人々がどんな生活をしていたのかなどについて、答えられる人は少ないのではないでしょうか。

 このページでは、北方領土の自然や歴史などについて、小中学生のみなさんが理解しやすいように、できるだけわかりやすく紹介したものです。


 北方領土とは、北海道本島の東北の海上に連なっている歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島のことをいいます。

画像北方領土位置図
北方領土位置図 

 気候は、海洋の影響を受けて、真夏の8月で平均気温が16度、冬でも根室とほとんど同じで、零下5度か6度くらいです。ただ年間を通して風の強い日が多く、特に冬の間は、雪まじりの北西の季節風が何日も続くことがあります。

 では、少し昔の、日本人が住んでいた頃の様子を紹介します。

 人口は、1945年(昭和20年)の終戦に、北方領土の4つの島々には、1万7千人以上の人々が住んでおり、小学校も39校ありました。

 主な産業ですが、北方領土のまわりの海は、寒流と暖流がまじわっているため、魚や貝などがたくさんとれるところで、松前藩の時代から、漁業が行われていました。
 このほか、林業も漁業についで重要な産業で、島のほとんどが森林で覆われているので、良質の木材を生産していました。

 人々の生活は、島のまわりの海が良い漁場であったことや、木材など豊かな資源に恵まれていたことから、生活は比較的豊かでしたが、毎日の生活に必要な食べ物や用具などが船で運ばれているため、値段が高かったり、急病人やけが人が出たとき、船で根室や函館まで運んだりしたなど、苦しいことや不便を感じることもありました。
 それでも、島をふるさとに決めた人々は、祖先の墓をつくり、明るい希望をもって暮らしていました。

 もっと昔の北方領土には、北海道と同じようにアイヌの人たちが住んでいました。

 今から約400年前ころ 

 蝦夷地(北海道)を松前藩がおさめるようになると、北方領土に住んでいたアイヌの人々との交易が盛んに行われるようになりました。

 今から約200年前ころ 

 その後、汽船などの発達によって、ロシアが千島列島にそって南下してきたので、毛皮をとるため、生活に必要な品物や食料などの取引がはじまりました。

 また、江戸幕府は、蝦夷地や北方領土などの様子を詳しく知るため、最上徳内近藤重蔵など、優れた探検家を送って調査を行いました。

 1855年(安政元年)の日露通好条約で、日本とロシアの国境は、択捉島とウルップ島のあいだとし、南の島々は日本の領土、北の島々はロシア領土としました。この条約により、北方領土が日本の領土であることが、正式に決められたのです。

 その後、樺太・千島交換条約を結び、北方領土の島々に学校を建て、道路や港を整備するなど、人々が生活しやすいように開発を進めました。
 しかし、終戦の年、ソ連軍がいきなり南下をはじめ、北方領土を占領してしまいました。

 戦後、サンフランシスコ条約や日ソ共同宣言、日ソ首脳会談など、現在まで話し合いは続いておりますが、領土問題は、これからの日本とロシアの問題として解決しなければなりません。

 第二次世界大戦の終わった年(1945年)の秋、北方領土の元島民を中心に根室で始まった返還要求運動は、北海道から全国各地に広がり、人々の関心もしだいに高まってきています。


 北方領土を返還してもらうということは、国と国との間の難しい問題です。
 国民一人一人がこの問題について、正しく理解し、日本の立場をロシア連邦をはじめ、その他の国々に粘り強く主張していくことが大切です。

 2月7日は「北方領土の日」です。

  
         
○ 先生方に役立つリンク集

   □ 北方領土にかかわる資料
    
     ● 北方領土対策本部 CONTENTS
   
     ● 北方領土復帰期成同盟